
平成17年8月11日(木)に開かれた第18回洸山流伴奏部発表会で吟じられた、『会津の少女』(松口月城作)。
今回の発表会では、初の試みで漢詩にナレーションを加え、そして和歌と今様を織りまぜて、会場の方々にも当時の状況を分かり易く伝えられる様に構成しました。今回は、その『会津の少女』について少し解説してみます。
発表会での構成吟「会津の少女」
解説
今から138年前、国を二分する明治の戌辰戦争がありました。
徳川幕府は全権力を朝廷側に引き渡す可く約定を交わしたのでありますが、幕府と強い絆で結ばれてきた幾つかの藩が、異議を唱え戦が起こったのであります。
東北で最後の戦いとなった会津藩鶴ヶ城の攻防で、特に白虎隊の名声は、全国津々浦々まで広がりました。
一方、その陰には乙女達で編成された娘子軍の存在があります。華々しく散ったその姿は今では忘却の彼方へと去りつつあります。
娘子軍隊長 中野竹子と妹 優子姉妹をヒロインに漢詩は作ってあります。
その漢詩にナレーションを加え、そして和歌と今様を織りまぜ乍ら、当時の状況を分かり易くと考え構成してみました。
では。
ナレーション
会津の戦争は、時代が生んだ幕末の悲劇であった。
義に堅い会津藩の人々は、男も女も、老いも若きも、藩主の恩義に酬ゆべく剣をとって起ち上がったのである。
是非の議論は別として、東北人の意気に燃えた、美しいそして悲壮なる姿でもあった。
詩吟
男児義に赴く吾れ何ぞ退かん
だんじぎにおもむくわれなんぞしりぞかん会津の少女 気愾多し
あいずのしょうじょ きがいおおし
悲憤蹶起す 娘子軍
ひふんけっきす そうしぐん
白襷鉢巻 余烈あり
はっきょはちまき よれつあり
或は薙刀を提げて陣頭に立ち
あるいはなぎなたをひっさげてじんとうにたち
或は猛火を冒して堡塞を守る
あるいはもうかをおかしてほさいをまもる
花の顔 今夜叉の如く
はなのかんばせ いまやしゃのごとく
縦横に奮戦して 玉砕を期す
じゅうおうにふんせんして ぎょくさいをきす
ナレーション
中でも、江戸勤め勘定奉行、中野平内の娘 竹子は、娘子軍隊長として殊に目覚ましい働きをしたが、衆寡敵せず、刀は折れ力尽きて、遂に花も恥じらう22才を一期として壮絶なる戦死を遂げたのであった。
その薙刀の柄には、次の和歌を記した短冊が堅く結び付けられていたと言う。
和歌
武夫の猛き心にくらぶれば
もののふの たけきこころに くらぶれば数にも入らぬ吾身ながらも
かずにもいらぬ わがみながらも
ナレーション
竹子の妹 優子は、雨霰と飛び来る弾丸を物ともせず、倒れし姉を肩に掛け、薙刀を杖突きながら味方の陣へと連れ帰った。時に優子は16才の可憐な少女であった。
詩吟
見る可し其の義 其の魂
みるべしそのぎ そのたましい譲らず男児の 白虎隊
ゆずらずだんじの びゃっこたい
ナレーション
忠義の白虎にくらぶれど、赤き心を胸に秘め、
花は戦場ふりかえり、しずかに永眠る姉妹なり
今様
花の命の惜しみ無く 捧げて散りし乙女子の
やさしく胸に燃える火よ 忠烈会津の娘子軍
詩吟
幕末の悲劇 鶴ヶ城
ばくまつのひげき つるがじょう長えに行人をして感慨を深からしむ
とこしえにこうじんをして かんがいをふかからしむ
*幕末の戌辰戦争にむけて、会津藩ではいくつもの隊が編成された。その中でも鶴ヶ城で自決した白虎隊が有名だが、白虎隊は少年を集めた最も若い隊で、青年を集めた朱雀隊、その上の青龍隊、老年から成る玄武隊と年令別に四隊を編成して備えた。
また、男子だけではなく少女達も起ち上がり編成した隊がこの娘子隊である。悲しくも会津藩はこの戦いに敗れ、戦死者を多く出しただけではなく、生き残った者も辛酸をなめたという。
前回、詩吟のページで、詩吟(近体詩)には大きくわけて絶句と律詩の二つがあることをお話致しました。
またこの分け方の他に、日本人が作ったものと中国人が作ったものに大分されます。このことから
日本人が作った絶句
⇒
日本絶句
日本人が作った律詩
⇒
日本律詩
中国人が作った絶句
⇒
中国絶句
中国人が作った律詩
⇒
中国律詩
となります。難しそうに聞こえた方もいらっしゃるかもしれませんが、徐々に慣れていくと思いますので気にしないで下さい。これからはいくつか紹介していきますので、意味を追ってみましょう。
【日本絶句編】
〔読み方〕 不識庵機山撃図題す
ふしきあんきざんをうつのづにだいす
頼 山陽
らい さんよう
鞭声粛粛 夜河を過る
べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる
暁に見千兵の大牙を擁するを
あかつきにみるせんぺいのたいがをようするを
遺恨なり十年 一剣を磨く
いこんなりじゅうねん いっけんをみがく
流星光底 長蛇を逸っす
りゅうせいこうてい ちょうだをいっす
「不識庵機山撃図題す」という題は聞き慣れない方も、“鞭声粛粛”(べんせいしゅくしゅく)というこの有名な詠い出しは聞いた事がある方が多いのではないでしょうか?
《作者》
頼 山陽(らいさんよう) 1780-1833
安永九年大阪に生まれ、広島で育つ。母静子に訓育され九歳で藩の学問所に入る。儒学や中国の聖賢を学ぶ。
母からは歴史上の名将の武勇伝を聞かされ、日本歴史に興味を覚え眼病になる程読書を好む少年となり、十三歳にして述懐の古詩を作っている。
《解説》
謙信が信玄を撃つ絵を見ての作なり。永禄四年九月九日『一五六四』夜、雨宮渡しを渡り 翌十日 早朝を期して、信玄と最後の勝敗を決めんと一騎討ちを目指し、暁の霧にさとられぬ様 川を渡り武田の本陣に突き入りも、信玄も予知して三段本陣の構えを設けており、遂に勝敗を決するに至らず物別れとなる。
この時信玄は謙信を賞して降るとみて傘とるひまもなかりけり
川中島の夕立の雨と詠む。十年来の遺恨を八千の軍勢で攻む。
漢詩へのおさそい。。。前編
詩吟とは漢詩に節調をつけて吟じるものであるが、ではそもそも漢詩とはどういったものであろうか?漢詩とは、前漢の項羽と戦った劉邦の時代(前206年)から、後漢(219年)漢の国の詩を指す。後になってその呼称も変わる。
漢詩を説明するに至って重要なのが漢字であるが、この漢字とは蒙古文字、満州文字に対して言われる中国から伝来した文字、すなわち国字であり、かな文字に対して用いられる名前である。
この字を使って作り上げた『漢詩』という詩がある。本来は「漢代の詩」の意であるが、我が国においてはかな文字によって記された和歌「やまとうた」に対して、漢字によって記された詩「からうた」の意に用いられている。
日本の文化は、古来、中国文化の圧倒的な影響を受けてきたので、日本人によっても多くの漢詩が作られてきた。だが漢詩と言う時、その中心をなすものは日本漢詩ではなく、中国の古典詩である事は言うまでもない。
日本人は長い事中国詩を読み、学び続けてきた。この結果、今もなお中国詩は我々の生活の中に深く影響を及ぼしている。三千年の古来より黄河、長江の大自然の中に一貫して悠々と流れ続けているのは世界に類を見ない、『漢詩』なのである。
漢詩へのおさそい。。。後編
現在の絶句というものは律詩とともに唐(618〜907年)の時代になって完成した新しい詩形で近体詩と言う。
詩の形式を生む韻、律、平仄は大事な約束事として確立された。
詩形の一覧
ここに起承転結について、頼山陽が藤井竹外の質問に答えた内容を挙げて、説明する。
起承転結の意
例題
起句
一編の意を表す
京は本町 糸やの娘
承句
起句の意を受け継ぐ
姉は二十歳で 妹は十九
転句
起承の意を転換する
諸国の大名 弓矢で殺す
結句
全ての結果を表す
糸屋の娘は 目で殺す
漢詩への誘い。。。前編、後編いかがでしたか?やや難しい話になってしまいました。一度で全てが分からなくてもよいのです。
あまり頑なにならずに漢詩の世界に入れば、だんだんと肌で感じられるようになります。